ドイツは指導者国家
と呼ばれ、その宰相ヒットラーは『指導者』
とされる。そして、ナチス・ドイツの国家理論においては、政治権力は指導
という形で行われる。
『指導』の権力は
、国家作用の全体を独占する意味
において全体的なもの
であることを要する。
この結果、政治的多元主義は認められるぬことができぬ
。
政治権力が、議会や政府、政党といった諸要素間の間で分割されることや、組合や宗教団体といった国家外の諸要素間において分割されることも許されない。
また、指導の権力が指導者に集中すべきだということから、権力分立制も排斥
される。
権力分立制は、個人の自由の保障
を目的とする自由主義国家において権力分立性は本質的な要素
とされる。
一方ナチス国家においては、個人を共同体のうちに包含し
、個人を社会的存在たらしめるため、個人と国家の対立は解消
」され、個人を国家に対し保護する必要はなくなる。ここでは、権力分立制は、全く無用ばかりであるだけじゃなく
、強く排斥せられることを要する
。
『指導』ということが、自らを実現するために、すべての国家作用を必要とする
。
立法権については、『指導者』の制定する法律
(形式的意味の法律)でもあり、実質的には、民族精神に適合した指導の行為という性質を備える。
法律は国家の意志行為
ではなく、必ずや『指導者』の意志行為でなくてはならぬ
」。そしてこのような法律は、普遍性かつ非人的でありうるばかりでなく、場合によっては個別的でもありうる
。
自由主義国家では、普遍性
(普遍的な規則に基づく行政、裁判)は法律の本質的要素とされたが、指導者国家ではそうではない
。
ここでは、指導者が個別的な法律を制定する
という結果が出てくる。自由主義国家では個人間の調整のため、法律は、個人だけを法律の目的としその目的のために普遍性を有するが、指導者国家では、法律は民族精神から出発し民族の生活欲の表現
たろうとする。ここでは自由主義国家のように個人や公平ということはもはや問題ではない
。民族精神に適合する指導を確保するための法律は、普遍的な法律、個別的な法律のいずれでも実現できるので法律はそのいずれでもありうる
。
宮沢俊義「指導者と指導者国家」、同『憲法論集』(1978年、有斐閣)138、150−159頁。