2026年3月18日水曜日

【文学】ソロー『森の生活下』

  生活保護を受けるのは「沽券にかかわること」と思っている人がいる。一方、「不正な手段で暮らすことは別に沽券にかかわらない」かのような暮らしをする人もいる。後者のほうが、「よほど不名誉なはず」である。

 貧しさと関連して、われわれは、新しいもののために「あまりあくせくするべきではな」く、「古いものを裏返しにして使い、つねに古いものへと立ち返ろう。世間はちっとも変わりはしない。変わるのはわれわれのほうだ」。「新境地」を描こうとしすぎたり、「いろいろなもの」に感化されすぎてはならない。

 

 思想は守られねばならない。貧困になっても「貧しい分だけ、諸君は軽薄な人間にならなくてすむ」。貧困になっても「精神的に高い暮らしをすることによって失うものはなにもない」し、「魂の必需品を購うのに金はいらない」のである。


 H.D.ソロー『森の生活下』(1995年、岩波文庫)283ー285頁。


2024年4月22日月曜日

【刑法学】牧野英一「改正刑法準備草案について」

  ① 十九世紀の刑法は、啓蒙哲学に依って合理化し人道化した。これに対し二十世紀の刑法は、犯罪学を基礎として犯罪人を矯正して社会に同化させることに重きを置く。

 ② 刑罰につき、ひたすらに応報刑主義客観主義を唱えるのではなく、刑罰は重かるべきに重くして、軽かるべきに軽きにおいてこそ一般予防効果を発揮する。

 ③ 戦後の刑法でも倫理的な責任の観念は重要である。しかし、それは責任を問うて叱責するの刑法ではなく、責任感を促進して一種の弱き者としての犯罪人を保護する刑法でなければならない。

 ④ 十九世紀の罪刑法定主義は、刑罰に対し法律に依って個人を保障するものであった。ここでは、刑罰は単に害悪たるに止まる。これに対し、二十世紀の罪刑法定主義においては、犯罪人は刑罰に依って保護せられねばならぬ(木村)。刑法は国家の機能を制限するものでなくして、国家の機能を促進するものでなければならぬ。ここに、刑法の刑事政策的意義がある。刑事政策のない刑法は、盲目であり、空虚である。応報刑主義および客観主義はそれである

 ⑤ 刑法とともに刑事訴訟法、行刑法も新しくならなければならない。行刑は、裁判を機械的に執行するだけのものではなく、裁判を実質的に取り扱い社会倫理的に効果あらしめるものでなければならない。また、刑事訴訟法の問題は、いかにそれを刑事政策化すべきかに在る

 牧野英一改正準備草案について同『刑法の新立法と新学説』(1962年、有斐閣)294ー296頁

2024年4月3日水曜日

【憲法学】橋本公亘「基本権規定と私人間の関係」

二 比較的考察 

(1) アメリカ  
 アメリカ最高裁は、修正14条(平等保護条項)の名宛人は、であって、個人ではないとしており、また、この基本的態度は、今日も変わってはいない。そして近時では、この態度を崩さずに州の行為』の概念を広く解することによって、憲法上の保障を拡大しようとしている。
  
(2) ドイツ  
 ニッパーダイは、ある種の基本権規定が私人間の関係に対して直接効力があるとしている。彼は、すべての基本権について直接適用を主張しているわけではなく、またある種の基本権についていわゆる間接適用があることを否認しているものでもない。一方デューリッヒはこの直接適用説を否定し、間接適用説を主張する。

三 学説の検討  

 無効力説(阿部教授の命名)は妥当ではない。公私法を通ずる原則や私法秩序に関する原則を含む全国法秩序の最高規範としての法律が憲法である点や、社会的権力からの要保護性という点を忘却しており、さらに国家には個人の尊厳をまもるために行動する義務があるからである。 
 一方直接効力説にも問題はある。特に国家対国民の場合には、国民のみが基本権の主体であるが、国民対国民の場合には、両者はいずれも憲法上同じ地位にあるという点との関係で問題である。そして、間接適用説は、基本権規定における客観的価値秩序の存在と、この秩序が、全法領域に妥当することを認めているが、そうであるなら私法関係について、直接適用を問題としなければならない場合もあり得るだろうし、憲法解釈としても問題としなければならないことを、私法の解釈に委ねているきらいがある。

四 基本権規定と私人間の関係(私見) 

この問題は、(A)いかなる基本権規定が、(B)いかなる法律関係について、(C)いかなる程度で、私人間の関係に及ぶのかが、考察されなければならない。 

 まず、明文で私人間においても権利を保障する旨定められているときは(憲法15条4項等)、それらの規定の効力が私人間の関係に及ぶのは当然のことである。では、このような明文規定がない場合はどうか。まず、人権規定のうち、第三者効力を論ずる余地がまったくないものがある(17条等)。これらの規定も、ここでは除いて考えてよい。また28条の権利も、私人間における効力を認められる、と解するのが素直な解釈である。  

 では、他の自由権、法の下の平等はどうか。  

 これら諸規定は、個人が他のすべての権利主体に対して同様の権利を持つことを保障したものではない。しかし、憲法第三章の規定は、社会生活においても尊重されるべき客観的法規範であり、私的自治といってもこのような憲法の価値体系の枠内で認められるものであることに注意を要する。この客観的法規範としての基本権規定の法内容が私人間の関係に直接及ぶことも、論理上は存在するとみなければなるまい。  

 憲法の解釈においては、この客観的法規範としての基本権規定がいかなる場合に私人間にも及ぶかが重要であり、直接か間接適用かは憲法解釈としては、その次の問題である。例えば、先述(B)について言えば、社会的権力に対しても個人の自由がまもられなければならない大企業と被用者、労働組合と組合員等)。  

 そして、自由権の他に制度的保障および原則規範というものは、憲法以外の他の法分野についても、一定の価値秩序を実現しようとして定められたものであるため、制度的保障および原則規範に明らかに反する法律行為について、憲法上これを無効ということができる私的な外部勢力が私立大学の自治を侵害するとき私有財産制を否定するような内容の私人間の契約等)。  

 橋本公亘『日本国憲法』(1980年、有斐閣)160-172頁、126-131頁。

2024年2月14日水曜日

【憲法学】佐々木惣一「一票の投げどころ」

三 政見は明瞭を要す

 候補者の政見は明瞭を要する。今日では、その一歩として候補者の政党の所属関係を明らかにする事が必要である。この点の関係して、一般に政党というものに反対する等の事情がなければ、候補者の無所属、中立と云うが如きことには、賛成できない。
 
 また、現在の政党が不人気だから、とか、政党の政策を明らかに標榜することを避けたいという理由から、無所属、中立を名乗るものは卑怯である。こういう人物は、自分の都合で、西へ東へと吹かれて行く。政党間の対立において、争奪の目的となるのはこういう議員であり、或る意味では買収という弊害の根源とも言い得る。

 なお中立とは、政党に対するものであって政治主義に対する関係ではない。この場合であっても、政治問題について明瞭なる意見を持たなければならない各個の政治主義に対して無所属とか中立とか云うことはあり得べきものではない

 そして、選挙の際の運動は、言論戦でなければならない。ここでの言論は政見に関するものでなければならないが、目下のところ、候補者の個人的価値についてのものが多い。『政見はとにかく、天下の人物だから、代議士たるに適する』という主張は、耳には入りやすいが、これは立憲主義の立場からは、鬼面人を嚇すようなものである。

 佐々木惣一一票の投げどころ同『立憲非立憲』 所収(2016年、講談社学術文庫)171-174頁。

2024年1月20日土曜日

【行政学】辻清明「行政管理」(1)

 第三章 行政管理

第一節 行政と管理

 重要な管理概念(科学的管理法)。

 →管理概念:専門別に分化した複雑多岐な行政活動を体系化行政全体の能率を向上行政目的の総合化これらに寄与する。

 e.g.POSDCORB(L. Gulick)。計画、組織化、人事、指揮、調整、報告、予算。

第二節 能率

 Gulick:行政学にとっても基本的な善は能率である能率こそは、行政の価値体系において最高の鉄則である

 *能率の発展段階。機械的能率(サイモン)→社会的能率(ディモック)→客観的、規範的能率(ワルドー)。

 ①機械的能率:労力・時間・経費の三要因が能率の内容を決定最小の労力と資材によって最大の効果を実現

  (批判)行政目的の観点から、三要因を充足しえない場合であっても、非能率と言えない場合もある。機械的能率は、人間的価値を壊しやすい

 ②社会的能率:行政の社会的有用性という観点から能率を判断する。社会目的観点の取り入れ。

  (批判)社会的能率という単一基準では、三要因の浪費に対する詭弁になりやすい

 ③客観的、規範的能率:機械的な判断基準が容易な場合(新旧タイプライターの比較)は客観的基準、能率の判断が評定者の規範意識に依存する場合(e.g.教育・宗教・人権といった分野)は規範的能率。

 辻清明『行政学概論』上巻(1966年、東京大学出版会)47-57頁。

2024年1月5日金曜日

【国家学】ハンス・ケルゼン「国家形態と世界観」

 専主政と民主政の対立、特に、どちらを選択するかという対立は、期待された社会秩序の内容からは生じない。人は、この社会秩序を絶対的に正しいと信じるか、相対的にのみ正しいと信じるかのみ決定できる。そして、前者の価値観(形而上学的、絶対主義的世界観)には専主的態度、後者の価値観(批判的世界観)には民主的態度が適合する。

 後者の態度、つまり絶対的真理を認識できないと考える人は、反対の意見も少なくとも可能であるとしなければならない。相対主義は民主的思想の前提なのであり、民主政は個々の政治的意志を平等に評価する。故に民主政は、自己の政治的態度を発表し賛同を得るための自由競争への等しい可能性を与える少数も絶対に不法ではなく、絶対に無法ではないので、いつでも自ら多数になりうる

  専主政と民主政の対立は、この両者が形成する社会秩序を支配する指導者の選択についても問題となる。

 指導者選択の問題について民主政では、指導一般を公の競争の対象として、指導闘争を広大にする方法をとる。一方専主政では、指導者への進路に対して僅かな保障しか与えられていない。

 また民主政では、能力のない指導者が排除される保障をも作るが、反対に専主政では、排除が世襲制の原理の故、逆に作用する。そしてこれと関係して、民主政では批判の自由の原則のために、行政における問題が容易かつ迅速に暴露されるが、専主政では、支配の権威を守る保守性の故、伝統的な隠蔽性を発達させる。だから近視眼的観察者は、専主政より民主政に多くの腐敗を見るのである。

 ハンス・ケルゼン(清宮四郎訳)『一般国家学』(1971年、岩波書店)618ー620、615ー617頁。

2023年12月8日金曜日

【憲法学】奥平康弘「防衛問題と憲法」

三 現実主義の台頭と憲法学説の役割

憲法支配学説への挑戦

  政府によるー戦力概念操作を用いたー自衛隊合憲論は、まことに巧みな、現実主義的な立場である。これに対し、自衛隊は『陸海空軍』そのものにあたり憲法上許容されえないものと解する憲法学説は、現実を無視した、ドンキホーテ的な見解となる。

憲法学説の任務

 確かに、憲法解釈が現実無視の空理空論であってはならない。但しそれは、学理上許されないと考えられる現実に解釈が追随しなければならない、ということまでも意味しない。規範が現実を批判し、現実を嚮導するものではなく、現実に追随しなければならないとしたら、憲法の独自の存在意義は消滅するだろう。9条についての支配学説は、現実政治を支配できていない。しかし、これら学説に支えられた批判勢力がなければ日本の防衛策はどうなっていたか。他国の防衛力増強要求に抵抗できたか。そして、憲法改正により、防衛問題を憲法問題とせず単なる政策問題にしてしまうべきか。

四 憲法改正論の問題点

 戦力概念の操作をやめ、防衛問題について憲法を改正するということは、内閣の解釈に追認し現状を肯定するための改正、ということを意味するが果たしてそれだけで終わるか。防衛力強化はいちだんとはずみがつくことになるのは目に見えている

憲法改正論の背後にあるもの

 こういう改正をしたい人たちは、日本国憲法の理念や内容のどれもが、気にいらない

なかんずく、天皇の政治的地位の弱さ・人権尊重・義務の軽視、などは気に入らない最たるものである。9条改正の後は、当然に他の諸条項についての改正も要請することになるのは明らかである

 奥平康弘『憲法』(弘文堂、1981年)255-259頁。

【文学】ソロー『森の生活下』

   生活保護を受けるのは「沽券にかかわること」と思っている人がいる。一方、「不正な手段で暮らすことは別に沽券にかかわらない」かのような暮らしをする人もいる。後者のほうが、「よほど 不名誉 なはず」である。  貧しさと関連して、われわれは、新しいもののために「あまりあくせくするべ...