教唆の未遂
の問題がある。わが国においてこれを論じたのはわたくしであった
。一般的に、教唆の従属性ということから教唆の未遂は不可罰であることを当然としている。しかし、手先に使用せられる青少年者を犯罪の実行者として処罰しつつ、その背後に在る教唆者を、その未遂の場合において実行者に非ずとして不問に付するのは、われわれの果たして忍び得ることろであろうか
。しかし教唆の独立性
ということは未だ理解されず、教唆の独立性は、犯罪の実行に対する主観主義の当然の事理なるにかかわらず
、学者はこれを理解しない。
なお、国民の常識の問題として、人を殺すことと、人を殺すことを教唆するのとは、類型を相違にするもので犯罪の性質を別にする
という見解もある。わたくしは、例えば殺人と窃盗は類型を異にする
ものを認め、罪刑法定主義上
、窃盗犯人に対し殺人で処理することができないのを当然と考える。しかし、人を殺すことを教唆した者は、その被教唆者の手に因ってその殺人が為された場合において被教唆者と同じく正犯として論ぜられるので
、そこに類型の相違を認められない。殺人教唆と現に手を下して人を殺したこと
をきちんと区別すべきという論者もいるが、わたくしは、教唆者と被教唆者との間に事物の本質上、いかなる差異があるかを知るに苦しむのである
。わたくしから見れば、教唆も実行も共に同じく正犯とせられるものであるにもかかわらず、世は、両者を以ってその類型を異にするものとし、その関係は風馬牛も相及ばざるところであるかの如く論ずるのである
。
牧野英一「社会的責任の立場から」、同『刑法と社会的責任』(1965年、有斐閣)38−40頁。