2023年4月30日日曜日

【刑法学】牧野英一「社会的責任の立場から」(2)

  教唆の未遂の問題がある。わが国においてこれを論じたのはわたくしであった。一般的に、教唆の従属性ということから教唆の未遂は不可罰であることを当然としている。しかし、手先に使用せられる青少年者を犯罪の実行者として処罰しつつ、その背後に在る教唆者を、その未遂の場合において実行者に非ずとして不問に付するのは、われわれの果たして忍び得ることろであろうか。しかし教唆の独立性ということは未だ理解されず、教唆の独立性は、犯罪の実行に対する主観主義の当然の事理なるにかかわらず、学者はこれを理解しない。

 なお、国民の常識の問題として、人を殺すことと、人を殺すことを教唆するのとは、類型を相違にするもので犯罪の性質を別にするという見解もある。わたくしは、例えば殺人と窃盗は類型を異にするものを認め、罪刑法定主義上、窃盗犯人に対し殺人で処理することができないのを当然と考える。しかし、人を殺すことを教唆した者は、その被教唆者の手に因ってその殺人が為された場合において被教唆者と同じく正犯として論ぜられるので、そこに類型の相違を認められない。殺人教唆と現に手を下して人を殺したことをきちんと区別すべきという論者もいるが、わたくしは、教唆者と被教唆者との間に事物の本質上、いかなる差異があるかを知るに苦しむのであるわたくしから見れば、教唆も実行も共に同じく正犯とせられるものであるにもかかわらず、世は、両者を以ってその類型を異にするものとし、その関係は風馬牛も相及ばざるところであるかの如く論ずるのである

 牧野英一「社会的責任の立場から」、同『刑法と社会的責任』(1965年、有斐閣)38−40頁。

2023年4月22日土曜日

【刑法学】牧野英一「刑事責任の性質について」

  意思の自由ということが問題になる。意思自由を前提にすると、そこに倫理の問題が在るということになる。そして犯罪を道徳的責任の問題として考えるとき、それは罪を犯す者の自由意思の発現であるということになる。犯罪による責任が道徳的なものとなる結果、刑罰としての害悪が応報として正当化される。 

 これに対するものとして、科学としての犯罪学が現出した。ここでは犯罪人の意思に対する考え方が、自由意思論ではなく、客観的な実証的な観察の結果としての意思必至論となる。意思必至論を前提とする刑事責任は、道義的責任ではなく、社会的責任としての合理的な人道的なものに向かって進みつつある。

 自由意思に因る犯罪に対し応報刑としての害悪刑を科することが普遍妥当なものであり、厳粛命令であるということを前提に観念論を主張する論者もいる。これに対し、われわれは、犯罪の原因をたずねて、犯罪人のそれぞれに対し、科学的に適切な有効な方法を考えることに因り、犯罪人を社会復帰させることに刑事政策の目標があるとし、そこに、科学主義を主張することになっているのであるこれが、刑法における新しい進化の動きである

 牧野英一「刑事責任の性質について」、同『刑法と社会的責任』(1965年、有斐閣)102−106頁。

2023年4月13日木曜日

【刑法学】牧野英一「社会的責任の立場から」

  刑の執行の制度については、わたくしの経験したところとしても、憶い出になるところとして次のようなものがある。 

 ① 執行猶予制度を日本に持ち込んだのは誰か。わたくしの想起するところでは、わたくしが法科大学の学生であったその当時(明治三十四、五年の頃)新たに留学から帰国された岡田博士が、学生の間に問題として紹介した。岡田博士はリストに師事されたのであり、そのリストは刑事政策として執行猶予を主張したのだが、執行猶予は、われわれの間には非論理的な一種の珍奇な制度と受け入れられていた。執行猶予が広く比較法的に理解せられるに至ったのは後年の大審院長泉二博士の論文を待たざるを得なかった。

 ② 現行刑法になり執行猶予はやや広く認められるようになった。なお昭和二十二年の刑法改正の際、当時の司法省司法制度委員会は、従前の自由刑二年の制限をゆるめることを肯んじなかったわたくしは実際上の見地等から当時の現行法を固持すべきでない旨主張したが、委員会諸家の挙げて反対したところであった。しかし、わたくしの熱心な主張に因って、わたくしの三年案が法律となった。なお立法例としては、執行猶予を許容するにつき、刑期の制限を認めないものがあるのである。 このあたりを推して考えれば、無期刑及び死刑についても立法論として執行猶予を許容するということが考えてしかるべきであろう。兎に角、執行猶予の制度はその適用を推しまるべきではない

 ③ 刑法理論上、執行猶予の制度の地位はどうか。これを一種の応報的制度として理解すべきものという論者もいる。善に対して賞あるべきが如く、悪に対して悪がなければならないとすれば、執行猶予はひとつの小さな悪として小さな悪に対しふさわしい刑罰であるにちがいない。しかし、応報刑論に従えば執行猶予の効果を考慮する必要はなくなる。刑の贖罪的機能はそれが一つの処分として言い渡されただけで論理的には満足が得られるからである。

  ④ しかし執行猶予の効果を考慮する者にとってこれは不十分である。応報的要素を捨て執行猶予は、更に拡張されて宣告猶予とならねばならぬ。さらに宣告を猶予せられた者を保護観察に付する必要がある。ここに至っては、保護観察は刑事上の独立の制度となり、いわば刑に非ざる刑法上の制度が一種の制裁としてせられる。これはわたくしの用語を以ってすれば刑法の非刑法化の一現象に属する(イェーリングによる刑法の将来はその廃絶に在るという言葉に注意)。

 牧野英一「社会的責任の立場から」、同『刑法と社会的責任』(1965年、有斐閣)12−16頁。

【文学】ソロー『森の生活下』

   生活保護を受けるのは「沽券にかかわること」と思っている人がいる。一方、「不正な手段で暮らすことは別に沽券にかかわらない」かのような暮らしをする人もいる。後者のほうが、「よほど 不名誉 なはず」である。  貧しさと関連して、われわれは、新しいもののために「あまりあくせくするべ...