2023年10月12日木曜日

【法哲学】ラートブルフ「法における人間」

  「法の念頭におかれ」、「法が命令をむけているところの人間像」はどういうものか。時代時代におけるこの人間像は、時代時代における法スタイルにとって「決定的」なものである。

 中世ドイツ法は、「習俗とか宗教を通じて、義務および共同体に結びつけられた人間を前提とする」。このような人間が、「義務によって支えられた権利」を行使した。

 そして後のルネッサンス等によって、個人は「共同体から解放」された。ここでは、「義務」ではなく「利益によって導かれた個人」を法の出発点とした。「新しい人間類型は、利潤追求と打算に終止される商人像を模してつくりあげられた」。この時代、「いっさいの社会的ならびに経済的束縛」は無視され、契約においては、「いつも対等な人間が相対峙」した。「利己的、知性的、活動的で自由」な人間は、「たがいに平等」とされた。「法律上の可能性は事実上の可能性と同視され」、「法上の契約自由は、あたかも現実の契約自由」とみなされた。

 「ごく最近にいたるまで、われわれの全法律思想を支配していたものは、このような人間観であった」。民事訴訟における「弁論主義」は、「二人の敵対者が対等な立場において対峙する」ことを意味し、刑法における「心理強制説」(フォイエルバッハ)は、「犯罪がもたらす快・不快の結果の計算」をする人間を前提としていた。また公法においては、例えば選挙は、個人の「利益表明の総計」として現れた。

 とは言え、「この間においても」「狡猾にして自由かつ利己的な人間」像の「虚構」性が白日なものとなっていた。後に、「法における新しい人間観が興ってきて」「新しい法時代がはじまっている」。この段階での新しい人間像は、抽象的なものではなく「生活に密接した類型」であり、「孤立した個人」ではなく「集合人」を想定していた。公法では、「集合人の概念」から民主主義が考え直される。つまり、民主主義において「社会的な集団とか、階級」等「きわめて複雑な社会学的な全体」が考慮されるようになった。

 さて、「法における人間を集合人として考えるということは」、「権利の倫理化」が行われ、「倫理的な義務内容を権利に盛る」こと(例。「所有権は義務を伴う」)が行われていることを意味する。「イェーリングが、権利のための闘争を倫理的な義務にまで高めている点」に注意しておきたい。

 ここまでで、すべての法は、最初は「団体的な人間に対する団体的意識の法」であり、ついで「個人法」と考えられ、最後に「組織された共同体の法」と考えられてきたことがわかる。

 ラートブルフ(桑田、常盤訳)「法における人間」、同『法における人間』(1962年、東大出版会)3−17頁。

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