「一 法治行政と行政便宜主義」
行政庁は、公共の安全と秩序を保持する責任を負い、「そのために国民の権利自由に規制を加える権限を有している」。そしてこの権限は、「行政法規の授権するところに従い、法規にそって行使しなければならない」(法治行政の原則)。但し、授権がある場合でも「権限発動の要件が、法文上裁量事項」とされているときはもとより、「厳格な羈束条項として定められている」ときであっても、取締権限を行使するかは「行政庁が公益管理の視点から独自の裁量によって決定すべき」と解されていた(行政便宜主義)。
「二 『裁量権収縮論』の意義」
行政便宜主義を厳格に適用すると、行政庁の取締権限不行使の結果、損害が発生しても「行政庁の不作為が違法となることはありえない」し、実際に損害が発生しても「国家賠償を求めること」も、また損害予防のために「あらかじめ取締権限の発動を請求することも」許されない。
しかし、行政庁が取締権限を与えられているのは、公共の安全と秩序を保持する公益目的のためばかりでなく、「国民各個の法益保護」も行政権行使の目的とされている。そこで、「行政庁が取締権限を適切に行使しさえすれば」国民への被害発生は防止できたであろうのに、「漫然とこれを怠り甚大な被害を発生」させた場合、行政庁の態度を違法と評価し、その「怠慢に対し責任を追求できる道」が必要となる。つまり、行政便宜主義の下でも「例外的に行政庁の不作為を違法とする論理」が必要であり、それが「裁量権収縮論」ほかならない。
裁量権収縮論によれば、取締権限についての「行政裁量の幅は、四囲の具体的状況との関連で限界づけられる」。この幅は、「同一の法律状態の下でも」、事実面で予防すべき危険性が増大し危険な結果発生の可能性が高くなるほど狭くなる。そして「危険がかなり甚大となって取締権の発動が緊急不可欠と認められるような状況」が発生した場合、「裁量の幅は、ついに零に収斂して、行政庁には取締権の行使が義務づけられる」ことになる。
裁量権収縮論は、具体的事実と関連付け法規を解釈し、行政庁の取締権発動についての「決定権限の独占を制約」することで、取締権発動のイニシアティブを「ある範囲で国民の手に留保し」、国民の法益保護のためについて権力を行使させる法的手段を「国民の手に確保する」説、だと言える。
「三 『裁量権収縮論』の判例による承認」
なお、元々裁量権収縮論は、ドイツ司法裁判所における損害賠償法理として展開された。その後1960年代に、この理論は、行政裁判において「国民が義務づけ訴訟を行政裁判所に提起して、行政庁に対して取締権限の発動を求める」ために利用されることとなった。
塩野宏、原田尚彦『行政法散歩』(1985年、有斐閣)312-320頁。